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小林秀雄「現代には宗教的経験が欠けている」

柳田国男「妖怪談義」についてのこと

化け物の話の一つ、できるだけきまじめにまた存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれによって、通常人の人生観、わけても信仰の推移をうかがい知るにあった。しかもこの方法をやや延長するならば、あるいは眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致し、迷いも悟りもせぬ若干のフィリステルを、改宗せしむるの端緒を得るかも知れぬ。もしそういう事ができたら、それは願ってもない副産物だと思っている。

私は生来オバケの話をすることが好きで、またいたって謙虚なる態度をもって、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば、相手が悪くなったからである。まず最も通例のうけこたえは、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは、あるものでござりましょうかと来る。そんな事はもうとっくに決しているはずであり、また私がこれに確答し得る適任者でないことは、わかっているはずである。すなわち別にその答が聴きたくて問うのではなくて、今はこれよりほかの挨拶のしようを知らぬ人ばかりが多くなっているのである。偏鄙な村里では、怒る者さえこの頃はできて来た。なんぼ我々でも、まだそんな事を信じているかと思われるのは心外だ。それは田舎者を軽蔑した質問だ、という顔もすれば、また勇敢に表白する人もある。そんならちっとも怖いことはないか。夜でも晩方でも女子供でも、キャッともアレエともいう場合が絶滅したかというと、それとは大ちがいの風説はなお流布している。何の事はない自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けているのである。まだしも腹の底から不思議のないことを信じて、やっきとなって論弁した妖怪学時代がなつかしいくらいなものである。ないにもあるにも、そんな事は実はもう問題でない。我々は、オバケはどうでもいるものと思った人が昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。

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